神の子としての小室哲哉

TMネットワークユニコーンのグラビアがでかでかと出ていた、あのころの女の子向けの音楽雑誌って、今はもうないのだろうか。その世代の私に言わせてもらえば、小室哲哉といえばごく普通の天才作曲家である。初期では中山美穂の「50/50」が印象深いが、安室とかtrfとか篠原とか、浜ちゃんに書いた曲だって良かった。カラオケで踊りまくってしまったのだから確かだ。

その前の世代の大物というと、もちろん筒見京平である。その筒見とは決して似ていないことが、彼の才能を示しているし、また彼の時代を作ることになった。あんなにいっぱい作っても、どの曲にも、ちゃんとコアーになるアイデアが見えた(同じアイデアの曲もあったけど)。だけど確かに、常にチープでもあったのが小室サウンドだった。カラオケで踊りまくるという用途にはそれが良かったのだけど。

彼は"My Revolution"という曲で有名になったが(動画)、この曲を「宇宙戦艦ヤマト」の宮川泰が褒めていたのを、よく憶えている(しかも雑誌FM fanで)。レコード大賞に推薦したとまで言っていたし、実際に作曲賞を受賞した。「頬杖ついていた」の頬杖の部分が16分音符になっている歯切れの良さを、彼は指摘していた。ついでに、これを編曲した大村雅朗という人も大したアレンジャーだった(「人として」「そして僕は途方に暮れる」等々)。B面を作曲した岡村靖幸は、てっちゃんと同じくハードに落ちぶれたが、やはりスゴイ天才だ。そして渡辺美里っていう歌手も、曲に合っていたのだろう。"Believe"もいい曲。でも小室作品以外は売れなかった。
http://www.youtube.com/watch?v=UNmqH-sh7tY&hl=ja

自分がどれだけやったか 窓に映ってる素顔を 褒めろ」ていう歌詞は自分たちのことだ、と浜ちゃんが解釈していたけど、哲ちゃんの歌詞はそんなに褒められたものではなかった。いろんな意味で完成度が低いというか、時間がなかった感がハンパじゃない。もっと音に合わせてくれと、作曲家だったら言うだろうような歌詞を、自分の曲に乗せていた。その代わり、アレンジは常に完璧に曲に合っていた。

華原朋美の曲もヒットしたけど、私がスゴイと思うのは、アイドルをプロデュースしつつ手込めにしたという後ろめたい感じが、ちゃんと曲に出ていたことだ。それは朋ちゃんのキャラクターのなせる技かもしれないけど、「感じ」を曲にできるっていう才能が正直、羨ましくてサリエリ気分だ。

ヒット曲っていうのは、本当は、一人の人が立て続けに産み出すようなものではないのだ。一曲だけが歴史に残るような、名も知れない作曲家がたくさんいれば、それで私たちは事足りる。だから大物作曲家というのはそれ自体、自分で選ぶ道ではなく、運命のいたずらだろう。音楽を取ったら何も残らず、ちゃんと貯金して堅実な老後を送ることすらできない小室哲哉は、やっぱり神に選ばれた子、アマデウスに違いない。

たとえばモーツアルトの曲が素晴らしいと言ったところで、それを縁なき衆生に説明する方法は、単に愛好者の数が多いとか、長い時間の選別を生き残った、というような数字でしかない。曲を作って800万枚とか売った哲ちゃんを恩赦にして、とりあえず読売新聞の社長よりはいい勲章をあげたいと思う。少なくとも差し入れはしていいと思う。彼がいなかったらお金では買えないものを、私たちは彼にもらったはずだ。