教育・学歴・人材不足

問題発言を連発して五日で辞任した中山国交相ですら、全く存在意義がなかったとは断定できないのが、歴史の興趣というものである(脳が傷んでいるのは確かにせよ)。なにしろ日教組というのは、その考えが多数派ではないということ自体にアイデンティティがある面白い人たちの集まりであって、君が代を歌うことが思想教育だという思想教育についてほとんどの国民は単にケッタイだと思っている(その証拠に、君が代をむりから歌わない人はニュース沙汰になる)。君が代以前の問題として、ほとんどの人は、はっきりした思想なんか持っていないからだ。それを代弁した中山の発言が世の中に与える影響は、測定不能だがゼロではない。

 一方で、自身も所属した日共の路線については「選挙で革命するというのはやはりぬるい思想だった。それは当時から思っていた」としながらも、最近になって、その考え方を揺るがす出来事がおきたという。
 「小泉純一郎首相の郵政選挙ですよ。郵政民営化とか規制緩和とか、シンボリックな旗を立てて、賛成しないものは排除する。そのやり方に国民が酔いしれて、ああいう結果になった。われわれなり、全共闘なりがやりたかったのは、これに近いものだったのではないか。学生運動はその方法論をわかっていてできなかった。そして初老に近づいてから、まんまと小泉革命に一票を投じてしまった」

【さらば革命的世代】第2部(5)「民青」の宮崎学さん 「まるでファッションだ」 (3/4ページ)

宮崎は、かつての学生運動をまるでファッションだったと言っているのであり(正確には「まるでファッションのようだと冷めた目で見ていた」)、この見出しは未必の故意によりミスリーディングとなっている。政治力についての話といえばそれまでだが、ここでは思想の内容はどうでもよく、革命の方法論だけの話になっているのが面白い。何はともあれ、学生運動にせよファッションにせよベストセラーにせよ、「ムーブメント」が全体として知的であったためしはない。

小泉は70年代から郵政民営化を唱えていたので、そのあとは議員として彼を選んだ時点で民営化を選んだことになる。そして間違いなく国民は彼を選んだのであり、これほど民主的かつ非暴力的な政治活動はないと言えよう。もちろん知的でもないが、国政とはそういうものである。中山大臣と同じく、何が幸いするかはわからない。

だからこそ、事前に判断できることとして、政治家には一般的な能力を問うしかない。なるべく勉強ができるとか、話がうまいとか、笑顔に魅力があるとか、背が高いとか、いろいろ考えられる。そして今の日本の政治家は、少なくとも抜群に勉強ができないのである。官僚も同じであるのに、日本人は西欧諸国の状況を知らなすぎる。これは由々しき自体であり、それこそ日教組にも責任の一端があるかもしれない。だって勉強の話はちっとも出てこないし。

一般に日本の政治家は、選挙で当選したいという動機が、常にポリシーを上回ってしまっている。この対策として、いったん議員に選ばれれば、そのあとは完全に生活を保障するというアイデアはどうか。今は銀行とかに就職してしまっているような優秀な人材が集まるだろうし、選ぶ有権者のほうも今より慎重になるだろう。官僚も同じようにすれば、もっと優秀な人が集まるはずだ。もちろん個人を見れば、単に勉強ができればいいわけではないが、全体としては絶対に、勉強ができない集団よりはマシなはずだ。たとえば小さな政府を目指す前に、それでもやっていけるような精鋭が必要と考える。