術中覚醒:リアル金縛り

麻酔中なのに意識があって、外科医たちの会話が聞こえたりする、という現象について調べてみた。それがどんなに恐ろしい状況かは、麻酔科医によるこのページを見るとよい。手術の途中でパッチリ目を開けたりする場合も術中覚醒というが、私が興味を持ったのは、外からはわからなくて後で判明するような覚醒だ*1。手術の直後には訴えがなく、数週後に思い出すことがあるらしい。

術中覚醒は、学術誌でもテーマとして確立していた。すなわち事実かどうかではなく、困った問題として認識されている(こんな風に)。ということは、正しく麻酔をしても起こると考えられているわけだ。ただし、非常に頻度が低いことも確からしい。一方で、「記憶に残ってないだけ」のケースがどのくらいあるかは、全くわからない。

まず基本的事項として:

  • 全身麻酔薬は、どうして効くのかわかっていない。精神安定薬とか覚醒剤とかニコチンとかは、ある種の受容体にくっついたりすることがわかっているが、そういう理解すらない。すべて疎水性(油性)なので、おそらく細胞膜に何かアレするのだろう、と私は思う。
  • 麻酔薬以前の問題として、そもそも通常の睡眠・覚醒についてすら、仕組みがよくわかっていない。アルコールで酔っぱらう機序も。

外観上は同じく眠っているように見えても、麻酔が効いてる状態は、普通の睡眠とは違う。メスで切られても起きないのだから、まず麻酔のほうが深いとは思われるが、質的な違いはありうる。たとえば、麻酔では、"眠って"いる脳の部分が違うとか。

そもそもの始まりは、筋弛緩薬が実用化されたことらしい。これを使うと麻酔薬が減らせて安全なのだが、その分、どうも患者の「眠り」が浅くなったのではないかと感じる医師が出てきた。どうして筋弛緩薬で麻酔薬が減らせるかというと、患者が脱力しているほうが何かと都合がいいので(腹から臓物が飛び出してこないとか、人工呼吸がやりやすいとか)、それを目標に多量の麻酔薬を入れていたからだ。脱力だけを別の薬でできれば、麻酔の深さは、たとえば痛みに対して血圧が上がらないことを目標にすればよくなった。

それが60年前、20世紀半ばのことだ。1959年になって、手術の後に原因不明の不安や抑欝を示すケースがあること、手術中に医師たちが言ったセリフを再現できる患者がいることが報告された。それを聞き出すために、なんと、催眠術を使ったという。複数の報告がそうなので、わりと普通の手法だったらしい。(正直に言わせるため、お互い芝居をしていたのかもしれないけど)。

有名な報告では、オペ中に医療事故が起こったかのようなウソの発言を行って、あとでそれを憶えているか調べたらしい。ひどい話であるが、確かにそういう発言ほどよく憶えているという最近の報告があった。ほかには、「この男は太りすぎだ」といった、患者を攻撃するような発言もよく憶えているらしい。また昔は、筋弛緩薬が回らないように片腕を縛っておいて、そっちの手で返事をさせるという実験も行われた。だが、古い報告は全般的に信頼性が低い。"科学的な"研究といっても、ちょっと昔はかなりいい加減だったようだ。

ちょっと脱線

手術中に、わざと記憶に残るような発言をして調べたり、あるいは返事させたりする、というのは研究の新しい段階である。だから一見、進歩したように見えるけど、同時に、ここには話の飛躍がある。

  • 手術中に意識のある人がいる→みんな、少しは意識があるのでは?

「手術中に聞こえたことが脳内で処理される」のは、繰り返し報告されているので、本当のようだ。でも、それだけで意識があるとは言えない。寝ているときにも、脳はある程度の情報を処理できるからだ。

飛躍があると何が問題かというと、多くの患者はちゃんと意識も失っている、と判明した場合、「手術中に意識のある人がいる」という最初の仮説まで軽視されてしまう恐れがあることだ。飛躍が無意識に行われた場合は特に。

対策としては、手術中に脳波をモニターすることで意識の状態がわかる、という可能性があるが、もともと珍しい状態なので検査に引っかかったことはないようだ。たとえ対策しても、900人近くを調べてやっと一人見つかるだけ、という報告があった。つまり詳しくモニターするのは、費用対効果が悪いのだ。

ということで、研究上の最大の問題は、頻度が低いということにある。しかも同じ人でも、再現性はあまりないらしい。何千人も調べてようやく数十人だから、検査込みの前向き研究をやろうとしたら、やっぱりコストがかかりすぎる。

個人的には、麻酔の深さをいろいろ変えながら、画像的に脳血流なりをモニターする方法があると思う。どっちにしても手術ではなくて、健康な人に麻酔をして実験しないと充分なデータは得られないだろう。これは、今のうるさい倫理規定では難しそうだ。麻酔薬はれっきとした毒物であり(それで病気が治るわけではない)、呼吸も管理しないといけないなど、実験系として危険すぎる。かくも「科学的な根拠」を得るのは、時に難しい。

ということで現状は、手術中に恐怖体験をするのがイヤなら、なるべく複数の薬を使い、麻酔自体も深くしてくれと麻酔科医に頼むしかないようだ。あーこわい。

*1:ただしこれらは、報告でも往々にしてごっちゃになっている。このエントリを書いたあとで、プロによる詳しいまとめを発見した。あらら
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