過去の人口から終末を予測する

 レスリーの喩え話から入ろう。大きな箱の中に、あなたの名前を書いたくじが一枚だけ入れられたとしよう。全部で何枚のくじが入っているかはわからない。さてあなたはくじを一枚ずつ引いてゆく。すると、三回目にあなたの名を書いたくじが出た。さて、箱の中には何枚くらいのくじが入れられていたのだろうか?
 何十万枚というくじが入っていたんだろう、と思う人はいないはずだ。なぜなら、「あなたの」くじが、何十万のうち三番目などという、異様に早い順番に引かれるというのは、確率的にありそうにないことだからである。せいぜい十枚程度のくじがあったのだろう、というのが健全な判断だ。

http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/shumatsu.htm

公式には、初めて言い出したのはブラックホールなどを研究していた宇宙物理学者のBrandon Carterで、1983年のことだった。一般には同じく物理学者のJ・リチャード・ゴットの本で知られるようになった(邦訳「時間旅行者のための基礎知識」)。たしかに、宇宙のことばっかり考えてる人らしい発想だと思う。

私が初めて聞いた説明:

人類と呼べる生き物がこの世に生まれたのが、20万年前だとしよう。
我々の生きている現在は、人類史の中でどのあたりに位置するのかはわからない。しかし95%の信頼性で、真ん中の95%の部分にいるだろうと推定できる。
すると、人類の存続を一番長く見積もった場合でも、これまでの20万年は2.5%にあたるわけだから、あと780万年で終わるという計算になる。
ヒトの定義を変更して、ヒトと呼べるのは1万年前の人類からだとすると、あと39万年になる。95%の確かさで、人類史はそこまでに収まる。

これがen.wikipediaにも載っている終末論法 Doomsday argumentである。780万年とか39万年とか言われると、まぁそんなもんかなという気もするかもしれない。だけど、いつから人類がいたのかという情報だけで、終末が予測できてしまっていいのだろうか。
ヒトの定義を変更しただけで結果のケタが変わるような議論で、信頼区間といっても大した意味はない、と思えるなら、そこで終わりかもしれない。

時間の代わりに人口で考えたバージョンでは、人類の終末はもっと早くなる。

人類が滅ぶまでに生まれるヒトの総数をNとする。
今、ある赤ん坊が、その中でn番目に生まれてきたとする。
この子が過去未来をひっくるめた全人類の中で最初の何パーセントのところにいるかを、fとする。
以下は、この新生児の立場で考える。

自分が、どのあたりにいるか=fは、全くわからないと言える。だから、0より大きくて100パーセント以下の値を等しく取りうる。つまり (0,1] の一様分布となる。
(全人類の総数Nがわからないので、自分が何番目かという情報nを知ったとしても、やっぱり一様分布しかない。)
するとfは、Nとnから簡単に求められる。
f = n/N
ここで、どのくらいの精度で終末を予想したいかを決める。よくある95%信頼区間でいくと、fは5%から100%の間となる。すなわち、自分が最初の5%だったら、あとにまだまだ95%が生まれてくるし、最悪の場合は自分が最後だから、その間のどこかに現実があてはまる。(ここで信頼区間を99%にしたって、あとの話は同じ)
n/N > 5% を変形すると、
N < 20n
ということで、nがわかればNの上限が決まる。考古学の教えるところによれば、今までに生まれた人類の数はおよそ600億人らしい。Nはその20倍だから、1.2兆人が上限だ。
その人数を達成するのはいつか?地球の人口が今後、100億人で頭打ちになると仮定すると、9120年でそれだけの人間が生まれてしまうそうだ。一万年前からいた人類だが、今から一万年以内に滅びる可能性が高いと言える。

信頼区間を変えればもっと伸びるが、そういうことじゃなくて

  • この議論自体は受け入れられるものか?
  • 受け入れがたいとしたら、どの前提が悪かったのか?

というのが話のキモである。人類はもっと早く核の炎に包まれるみたいな因果的な予測は、ここではどうでもいい。

日本のネット上にも、別の説明があるし、三浦俊彦著「論理パラドクス」の75題に出ていることがわかる。一番わかりやすいのは、この三浦先生による冒頭に引用した説明だろう。

冒頭のクジの話は受け入れられても、終末論法のほうはダメという人は多いかもしれない。そうだとすると、一体どこに違いがあるのだろうか?一枚ずつクジを引いていく行為と、連綿たる人類の歴史の中で「私」が生まれてきたことには、何か本質的な違いがあるような気はするが。

この論法を裏打ちしているのが、平凡の原理=コペルニクス的人間原理という考え方らしい。自分は(全人類の中での順番という性質に関して言えば)何も情報がないのだから、平凡な存在と考えるべきだ、ということ。そこから一様分布も出てくるんだけど、一様分布を考えるしかないような状況で、それ以上考えることが時間の無駄だと思えるなら、やっぱりそこで終わりかもしれない。

実際、上記の三浦リストにある「庭のパラドクス」は、良い例だ。

正方形の庭の広さが、10メートル四方から20メートル四方の間だとわかっている。広さが15メートル四方以下である確率はいくらか。

  • 一辺の長さが一様分布だとしたら、それが15以下である確率は50%
  • そうじゃなくて、面積が(100平方メートルから400平方メートルの間で)一様分布だとしたら、250平方メートル以下の確率が50%だから、50%より少し小さい。(一辺が15だと225平方メートル)

イメージとしては、下手の考え休むに似たりである。私も子供の頃、よくこういう考え方をしていた記憶がある。

wikipediaによると終末論法への有力な反論として、そもそも「私」が生まれてくる確率は、Nに依存するはずだという考え方があるらしい。それだと、nを使ってNを予測することができないというきれいな結果になる。前提も結果もヘンじゃないが、全体として直感に一致するかというと、これも微妙な気がする。終末論法の本質的な不可思議さは、そこじゃないみたいな。

もう一つ、三浦本に、そもそもNが有限だということの根拠になる話がある。

文明は永遠に続かない。もし永遠に続くとすると、その中の構成員は平均して無限の長さの歴史(過去)を観察するはずである。しかし我々は、宇宙や地球の年齢を知っている。ゆえに文明の長さは有限である。

この話の違和感は、また格別である。無限と平均という、いかにも怪しい組み合わせでもあるし、宇宙の年齢が無限大だと観察するって、具体的にはどういうことだろう?? だってひとたび、おおよその年齢がわかってしまったら、どんなに時間が経っても、もう無限大の年齢を観察することはできないではないか。この論法はヒトが知っているものなら何にでも使えるので、永遠に続くものは何もないということでもある。

私の気力も続かなかったので今日はここまで。*1

*1:終わりとはこんな風に、あっけなく来るものでもある。