指数関数的に増加するための7^10の方法

なんかこういうエントリ名のフォーマットがあるらしいのでつい。

前々回のサンクト・ペテルブルグ*1のパラドクス*2大数の法則で納得しているわけだが、このどっちのネタもベルヌーイ家の人々による仕事だと気付いた。

でもペテルブルグは大数の法則だけじゃなくて、指数関数的増加の話でもあると思う。英語版Wikipediaには、ちゃんとその項目がある。西欧では、その増加の速さを子供に教えるための昔話みたいなものがあるようだが、我々日本人にはドラえもんがいる。→バイバイン

前のエントリを書くに際して、この論文をチラ見したところ(PDF注意)、面白いことが書いてあった。

ケン・ハレルソンという強打者がインディアンズにいたとき、「年俸は一切なしでいいから、ホームラン一本だったら50セント、2本なら1ドルというふうに倍にしていってくれ」と提案した。
チームのGMは利口だったので、その話には乗らなかった。現にハレルソンは30本も打ったので、その契約にしていたら268435456ドルになる。1970年当時の固定レート360円で計算すると、一千億円だ。

この金額でググってみたら、ちょうど石原銀行が側溝に投入した金額の初期値らしい。こういうお金にもバクテリアのように、指数関数的に増える性質があるのだろうか。私のような田舎者が大企業に払った金も、巡り巡って東京に納税されているのだから、可及的に使途不明金は減らしていただきたい。

指数関数的増加といえば、もう一つ思い出すのは、六次の隔たりという話だ。

六次の隔たり(ろくじのへだたり、Six Degrees of Separations)とは、人は自分の知り合いを6人以上介すと世界中の人々と間接的な知り合いになれる、という仮説である。

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%85%AD%E6%AC%A1%E3%81%AE%E9%9A%94%E3%81%9F%E3%82%8A&oldid=22860985

この説明は、ちょっと問題がある。「自分の知り合いを6人」とあるが、知り合いはその中に(必ず)一人しかいない。「6人の知り合いを介して」という言い方も、実によくグーグルでヒットするのだけども、こういう不正確な言い方は困る。「6つの"知り合い関係"を介して」でないと。

また、この話については「本当に6人で世界中がつながるのか」ということを気にする人が時々いるが、私にとって要点はそこじゃなく、やっぱり指数関数的増加だと感じられる。知り合い関係の連鎖をなしている6人それぞれに、重複しない知り合いが43人いるなら、43の6乗で今の世界人口と同じくらいになる。別に検証しなくても、ここだけで感心できてしまうのは、かつての私だけではないはずだ。それが現実には16人でも同じように面白いし、指数関数の増え方に比べたら小さい話だと思う。

*1:サンクト・ペテルブルグという地名の書き方が正確なのか気になっているのだが、ペテルブルクと最後を濁らない書き方はよく見かける。でもドイツ語読みだったら「ザンクト・ペテルスブルク」だと思うし、もういっそセントピータースバーグにしたろうかと。

*2:これは三浦俊彦師匠に倣った読み方だが、パラドックスのほうが普通だと思うので、タグのほうはそうしている。

骨折して19時間待たされたけど診てもらえず、請求書だけ来た件

医療に関するニュースが増えた今日この頃、海外での事件を適当にググってみた。翻訳および要約は私による。個別の事件について分析はできないし、していない。だけど、どうやら日本のように搬送先が決まらないというケースは、あまりないようだ。
つい先月のニュース(Fox, MSN

骨折したら病院で19時間も待たされて、医師の診察をあきらめて帰ったのに請求書が来たというダラスでの話。この病院では、救急でやってきた5人に一人が、待ちきれずに帰るという。ナースが全身状態を診ただけだが、その分が請求されてきたらしい。

死者は出ていないから、まだマシだ。
さかのぼって2007年のニュース

2007 年5月9日に、搬送された病院で45分間待たされて死亡したカリフォルニアの女性が全米で話題になった(Wikipediaに、その患者さんの項目があるほどだ)。消化管穿孔で吐血していた彼女は、傍目にも死にそうに見えたので、通りすがりの人までが「病院で死にそうなのに、無視されている人がいる」と救急に通報したという。だが病院のトリアージナースは信じようとせず、以前に暴言を吐いたことなどを理由に警察に連行させようとしたら、本人が死亡した。

これに関連して、ERの抱える問題が報道された。
ER Wait Time Problems Widespread(June 28, 2007 )

救急治療室ことERで手当したあと、入院ベッドがないためにそのままそこに放置されていることを"boarding"という。ERのドクターにアンケートしたところ、約65%がboardingによって患者の調子が悪くなるのを経験し、23%は、boardingのために死亡した患者を自身が経験していた。

さかのぼって2006年の記事
Hospitals work to improve ER wait times

ERで待たされた時間の州別平均
アリゾナ州(4時間57分), メリーランド州(4時間7分), ユタ州(4時間5分),ニューヨーク州(3時間58分), フロリダ州(3時間57分)

いろんなニュースがあるものだが、これでもアメリカだから、崩壊しきったイギリスよりは絶対にマシだろう。とりあえず病院には運んでいるが、病院での対応が問題と考えられる。どちらの国も、医師の待遇は日本より遙かに上だ。外来は30分に一人だけ、それを超えたら何ヶ月先でも延期するだけ。この記事のように、手術を待たされている間に死亡したようなケースも、日本ではこれから増えるのかもしれない。

以下、イギリスでの記事を羅列。
先月のニュース:病院で4時間待たされて死亡、訴訟を検討中
これも先月:一時間近く、救急車が来なくて死亡
2005年、5時間待たされて、辛抱できずに帰宅してから死亡。あと45分待っていたら呼ばれたのに、とのこと。
2004年、救急車が7時間来なくて、到着直前に絶命
2003年、ストレッチャーで8時間待たされて脳膿瘍で死亡
2001年、9時間待たされたあと死亡7時間待たされたあと死亡42時間待たされたが死亡せず。(生存したから、42時間も待てただけだが…)

私自身も欧州に住んだことがあるが、ヨーロッパ最大の都市であるパリに住んでいる人たちから話を聞いたことがある。それこそ映画「Sicko」でも、優秀な医療サービスの代表みたいに描かれたフランスの首都だ。そこで、夜中に子供を診てもらおうとすれば何時間も待つ必要があるので、高額で往診してくれる医師を頼むしかないというのが、共通認識だった(たしか一万円くらいで来てくれるが、薬を出すだけみたいな)。実際に救急で6時間待たされた、という話もあった。そもそも病気が往診で事足りる程度ならいいが、重症だったら病院に行くしかない。上の記事のように19時間も待つという体力も気力も、日本人にはないだろう。こんな状況が日本にあるとは思えない。でも日本の医師の給料は、どこよりも安い。その分は、誰が負担しているのか。さらに日本だったら、高額で往診する医師だって叩かれることだろう。

サンクト・ペテルブルグのダーツ板

前のエントリの訃報で、この数学者の名が野口悠紀雄の「金融工学、こんなにおもしろい」で紹介されていたのを思い出し、途中で放置していたので開いてみた。

すると「サンクトペテルブルグのパラドクス」が出てきて、このパラドクスをもって「人は期待値ではなく期待効用に従う」としたダニエル・ベルヌーイの説をそのまま紹介していた。だけどこの説明は、パラドクスを解決はしない。こんなことだけ書かれたら、真面目な読者はこっちが気になって金融工学に踏み込めないような…。

この話は以前のエントリ、「二つの封筒のパラドクス」にも関係していた。D.チャルマーズ(チャーマーズ)は、無限大が悪さしている例としてペテルブルグを持ち出したのだが、たとえ上限を設けても、この賭けをタチのよいものにはできない。

St Petersburg dartboard


こういうダーツボードを考えると、わかりやすい気がする。「アキレスと亀」のパラドクスよろしく、どんどん面積が半分になっていく同心円を描いてあるが、別に描いていなくても、中心からの距離で賞金が決まる。コイントスと同じ条件にするには、完全にランダムにダーツが刺さると考える必要があるが、たとえ狙って当てたとしても、ちょうど中心の「無限大」に当たる確率はゼロだ。そこだけは面積がないから。上限を設けたとしても、中心の狭いエリアが狭いことには変わりがない。結局、このパラドクスの不思議さを説明するには、大数の法則しかないように思う。

上にリンクしたWikipedia日本語版で、面白いことを見つけた。一ヶ月前にはなかった、「逆説の解答」というセクションができていて、

問題より、投げた回数をnとすると2^(n − 1)円貰えるから、1回のゲームについての、nの期待値はどのような値になるかを求め、それから2^(n − 1)円を計算すればよい。 ここで、裏表関係なく無限回コインを投げたと仮定して、その中に裏がx-1回続き、表がx回目に出るコイントス列が現れる割合は全体の1 / 2^xで、それぞれのコイントス列の試行は互いに独立事象なので、単純に確率の和を取ればよい。 なので、1回投げる事から無限回投げる事までの回数に、その回数が現れる確率を掛けたものの総和を、1回のゲームにおいて投げる回数の期待値μとする。…故に、コインを投げる回数の期待値は2回、期待できる金額は2^(μ − 1) = 2で、2円となる。

編集履歴を見ると、この記述は以前にも削除されたことがあったらしい(「ノート」参照)。期待値の求め方がおかしい気がするが、それ以前に、この説明では全然パラドクスを説明したことになってないのが私には気になる(心理学的な意味で)。

一方で、この記述をした人の気持ちもわかる。上のダーツボードでの賞金が、1,2,4,8, . . . と増えていくかわりに、1,2,3,4, . . .と増えたら、平均は2になるということだ。何か意味がありそうな気はするけど、それはサイコロを振った回数が得点になるという条件の時だけだ。

抽象しきれないもの

「ウォール街で最も有名な日本人」伊藤清さん死去との訃報。ガウス賞の、初代にしてまだ一人しかいない受賞者。

その訃報の記事に寄せられた、高橋陽一郎教授の話がよかった。 

日本発の数学が欧米にも広がり、経済に応用されるまで発展したのはあまり例のないことだ。しかし(伊藤先生は)、抽象的な数学が現実に応用されることには「測りきれない問題があるように思えてならない」と指摘していた。

こういう感覚、つまり「まだまだ現実は抽象しきれていない」と考える用心深さというのも、実は日本人の得意とするところだと思う。この種の慎重さは概して結果の確かさにつながり、エンジニアや製造業にとっては有用な素質だ。理論化よりも、プラクティカルであることを優先する態度。

だけど理論が先走って、やや無茶なことでも押し通す西洋人のパワーというのも時には有用というか、学術なり技術なりの全体としてのダイナミズムに寄与するところが大きい。時にとんでもない間違いがあっても、長い目で見れば最後には正しいものが残る。頑なだったフランスTGVも、動力分散方式に移行するごとく。

たとえば犯罪でも、病気でも、地球の気候でも、時空間を見渡してまったく同じ状況というのは存在しない。だから、抽象化の極みである法律とか、根拠に基づく医学とか、コンピュータシミュレーションとかをどう使うのかが、常に問題になる。抽象しきれないものの問題は深く、何かを否定しようとするとき、さらに大きくなる。それこそ血液型と性格の問題など、性格というものを抽象しきれないところに最初の困難がある。だけどそういう場所に、新しい科学もあるはずだ。

※ただしイケメンの天才に限る

catsnrats2008-11-12

ちょうど今週、とあるメゾソプラノ歌手の伴奏をして日本をツアーしているみたいだが、ダヴィド・フレイ David Frayという若いフランス人ピアニストの番組をArteチャンネルで観た。

ドイツの管弦楽団を相手に、フランスなまりの英語で指示を飛ばしながらバッハのコンチェルトのリハをやっていた(どうやらこのビデオを、そのまま流していたようだ)。81年生まれで、すでにヴァージン・クラシックスと契約してバッハとブーレーズカップリングしたCDを出している。このDVDのジャケ写は、なんかデイヴ・リーロス メンバー みたいだが、とりあえず顔も弾き方も、グレン・グールドを想起せしめるところのアレだ。しかも弾きながら歌ってるし。

本家グールド先生

確かにこのフレイ、新鮮でよかったから、つい番組を終わりまで観てしまったのだけど、ヴァージンクラシックとしては絶対、グールドに似ていたり、絵になるところが売りなんだろうと思われる。だってビデオ売ってるし、ここにも、「イケメン・フランス人ピアニスト、日本CDデビュー!」とか書いてあるしで、こっちが恥ずかしい。正直日本では、キモイという女の子も多いだろうけど、絵になるのは確かだ。

グールド自身もテレビ映像が豊富なアーティストだ。私は前から、パコ・デ・ルシア Paco De Luciaの顔も彼に似ていると思う。

やっぱり才能も、顔に出る。日本で一番のギタリストはCharであるが、彼が最初はアイドルだったのも偶然ではないと思うのである。小室のテッチャンだって、美少年だった。だけど音楽に関しては、いっさい顔なんか知らないで聴かせてほしいっていう気持ちもある。ポール・ポッツが売れるっていうのも、同じ理由で何か違うような。

神の子としての小室哲哉

TMネットワークユニコーンのグラビアがでかでかと出ていた、あのころの女の子向けの音楽雑誌って、今はもうないのだろうか。その世代の私に言わせてもらえば、小室哲哉といえばごく普通の天才作曲家である。初期では中山美穂の「50/50」が印象深いが、安室とかtrfとか篠原とか、浜ちゃんに書いた曲だって良かった。カラオケで踊りまくってしまったのだから確かだ。

その前の世代の大物というと、もちろん筒見京平である。その筒見とは決して似ていないことが、彼の才能を示しているし、また彼の時代を作ることになった。あんなにいっぱい作っても、どの曲にも、ちゃんとコアーになるアイデアが見えた(同じアイデアの曲もあったけど)。だけど確かに、常にチープでもあったのが小室サウンドだった。カラオケで踊りまくるという用途にはそれが良かったのだけど。

彼は"My Revolution"という曲で有名になったが(動画)、この曲を「宇宙戦艦ヤマト」の宮川泰が褒めていたのを、よく憶えている(しかも雑誌FM fanで)。レコード大賞に推薦したとまで言っていたし、実際に作曲賞を受賞した。「頬杖ついていた」の頬杖の部分が16分音符になっている歯切れの良さを、彼は指摘していた。ついでに、これを編曲した大村雅朗という人も大したアレンジャーだった(「人として」「そして僕は途方に暮れる」等々)。B面を作曲した岡村靖幸は、てっちゃんと同じくハードに落ちぶれたが、やはりスゴイ天才だ。そして渡辺美里っていう歌手も、曲に合っていたのだろう。"Believe"もいい曲。でも小室作品以外は売れなかった。
http://www.youtube.com/watch?v=UNmqH-sh7tY&hl=ja

自分がどれだけやったか 窓に映ってる素顔を 褒めろ」ていう歌詞は自分たちのことだ、と浜ちゃんが解釈していたけど、哲ちゃんの歌詞はそんなに褒められたものではなかった。いろんな意味で完成度が低いというか、時間がなかった感がハンパじゃない。もっと音に合わせてくれと、作曲家だったら言うだろうような歌詞を、自分の曲に乗せていた。その代わり、アレンジは常に完璧に曲に合っていた。

華原朋美の曲もヒットしたけど、私がスゴイと思うのは、アイドルをプロデュースしつつ手込めにしたという後ろめたい感じが、ちゃんと曲に出ていたことだ。それは朋ちゃんのキャラクターのなせる技かもしれないけど、「感じ」を曲にできるっていう才能が正直、羨ましくてサリエリ気分だ。

ヒット曲っていうのは、本当は、一人の人が立て続けに産み出すようなものではないのだ。一曲だけが歴史に残るような、名も知れない作曲家がたくさんいれば、それで私たちは事足りる。だから大物作曲家というのはそれ自体、自分で選ぶ道ではなく、運命のいたずらだろう。音楽を取ったら何も残らず、ちゃんと貯金して堅実な老後を送ることすらできない小室哲哉は、やっぱり神に選ばれた子、アマデウスに違いない。

たとえばモーツアルトの曲が素晴らしいと言ったところで、それを縁なき衆生に説明する方法は、単に愛好者の数が多いとか、長い時間の選別を生き残った、というような数字でしかない。曲を作って800万枚とか売った哲ちゃんを恩赦にして、とりあえず読売新聞の社長よりはいい勲章をあげたいと思う。少なくとも差し入れはしていいと思う。彼がいなかったらお金では買えないものを、私たちは彼にもらったはずだ。

安全性という基準

マイケル・クライトンが亡くなった。小説は一つも読んだことがなくて、自伝的おもしろエッセイの「インナー・トラヴェルズ」だけだ。2メートルの長身でハンサムで、ハーバード医学部を出て小説を書いたら大ヒットという困った人物。この本の中にも、外でいきなり女に誘われて一発やった逸話が書かれていた(大男とやりたかった、とかで)。あと映画監督をしてみたときに、ショーン・コネリーという人物のカッコよさにいたく感服した話とか。

だけど一番おもしろかったのは、もちろんロンドンの霊媒師のくだりだった。もう私の記憶も曖昧だが、たしか霊媒師が本当に真実を言い当てることに驚いて、何度も通って確かめる話。誰も知らないはずのことを知っていたりするのだ。結局、どうして霊媒師がそんな芸当をできたのか、わからないままだった。そういう事実そのものではなく、それを目にした著者が動揺し、ネタを暴く方法を考えるところが面白く、ドキドキした。ここにあるのはトンデモどころか、科学の神髄だ。理科の教科書に出ている偉人たちは、まだ科学がない場所へ科学の範囲を拡げた。それは世界を拡げることだ。

ところが、やはりこの本は、トンデモに属する、あるいはインチキ商売のオカルト系サイトで紹介されていた。確かに「本当の霊媒師がいる」ということを結局否定できていないので、仕方ないとは言える。大事だと思うのは、だからといってクライトンを非難してはいけないということだ。そうでないと、「インチキがばれた霊媒師」の話しかできないことになる。

学生の時、原爆に利用されたのでアインシュタインの研究は悪だ、と主張する友達がいた。その男は東大を出て法律の専門家になったが、何を企てているのか少し心配だ。

こんにゃくゼリーが危険かどうかの議論と似ているが、確かにクライトンの本もアインシュタインの仕事も、まったく安全というわけではない。我々の手が、いつか人を殺すかもしれないのと同じだ。だから、どのくらい安全か、ということの標準的な測定方法があったらさぞかし便利だろう。

バイクに何時間乗ることは、ロッククライミングを何分間するのと同じだけ危険、みたいな本が昔あった。こういう、死亡の統計から言える話はあっても、死なない程度の危険に関してはあまり情報がない。昔からニセ科学も危険ととなり合わせだ。動脈硬化があったらヤバイこれなんかまさに。ニセ科学というのは、もともと「無知」と相関が高いから、因果関係のみならず危険だ。

原爆にも使われた危険なアインシュタインの業績を、間違っていると主張する人がいるが、そういう人たちのために相対論フリーのカーナビを作ったら、それはそれで危険な気がする。